ライターにいみのBlog

興味あることについて日々探求思考している水産系ライターのつぶやきです

感謝したい人

先週は大事な打ち合わせがあり、病み上がりでしたが無事に終わってホッとしました。これから書きたいテーマがいくつか明確になり、また新たなアイデアも浮かんできました。

この前のこと。私が記事を寄稿しているあるところから、うれしい報告をいただきました。過去に私が書いた記事について、公的なところの方からある依頼の連絡があったそうで、その内容はまだ確定したわけではないので伏せますが、採用されたら多くの人の将来に貢献できる可能性があるすばらしいものでした。どこかできっと誰かが読んでくれている。諦めずに書き続けてきて、本当によかったと思います。

思い出すのは、以前に編集を担当してくれていた、ある女性の方のこと。私の書く記事は、他の方に比べて毎回文字数が多く、内容が専門的な一つの物事に執心したものになりがちなのですが「新美さんはそのままでいいんですよ」と微笑んで言ってくれたことを忘れません。その言葉が今もうれしくて、宝物のように大切にしています。そして、私を信じて守ろうとしてくれたことも。

また、私の書き上げた原稿を読んで「大丈夫ですか?足りてますか?」と、原稿料について心配してくれたことも何度かありました。私はいったん作業に取り掛かると、目の前の好奇と探求と執筆のことしか頭になく、ただよい記事を作りたい、それだけで損とか得とかはどうでもよくなってしまうのです。自分が納得できるまで調べて、とことん考えて、満足のいくものを作りたい。下手な文章でもいいから、一字一句に取材した時や書く時の自分の感情、取材に関わるさまざまなひと・もの・ことの思いを想像し、体の中に消化吸収して書きあげたい。締め切りという時間の制約があるなかで、夢中になり専心できるその間が、苦しいけれどとても幸せなのだと、書き終えてから思います。

東京で生きることに絶望し、失意のまま名古屋に戻った私に、最初に書く場所を与えてくれた亡き恩人の方も、ちゃんと食べることができているの?といつも心配してくれて、いろいろなアルバイトの仕事を回してくれました。今も時々思い返します。あの人が読んで喜んでくれるような記事を書きたいです。

私にとってのよい記事とは、読んだ人の心のなかに何かが残るもの。喜怒哀楽。共感でも反論でも違和感でもなんでもいい。読んだ後に何か感情が生まれ、残るものがあったら、そのことを書いて伝えた意味があったと思うのです。

書くことは怖い。十分に歩き、調べ、考えたつもりでも、間違えてしまうことはあるし、どこかで誰かを傷つけて、人生を狂わせてしまうかもしれない。批判するのであれば、批判されることを覚悟しなければならない。それでも書きたい、どうしても伝えたいことがある。自分の存在や考えを世に示したい。書くことに対する恐怖を上回るそうした強い衝動があるから、今日まで続けられている。そう言ってしまうのは、けっして嘘ではないけれど格好のつけすぎでしょうね。そうではなくて、私には他にできることがない、諦めて止める勇気がないと言ったほうが正しいのかもしれません。

自分が楽しくて面白くて夢中にならなければ、もしくは、義憤にかられた使命感のようなものがなければ、私はきっと書けないし、書いたとしても、芯のないちゃんと伝わらないつまらない記事になることがわかっています。料理と同じようなもの。手を抜いたら、わかる人には必ずわかります。一つひとつの言葉を大切にして、自分に嘘をつかないこと。残りの人生、あとどれくらい書くことができるのかわかりませんが、いろんな人に甘え、情けにすがりながら、それでも生きた証として、これからも書き続けていきたいです。

名古屋市営100周年を記念して復刻した地下鉄「黄電」